ブランド買取のOKURA(おお蔵)トップ コラム ファッション業界の革命家Christian Dior | OKURA(おお蔵)
コラム

Christian Diorと聞くと皆さまどんなお品物を思い浮かべますか?

バッグお洋服、お化粧品などなど思いつくお品物は様々かと思います。

レディディオールブックトートサドルバッグオブリークシリーズ、マキシマイザー、スキンフォーエヴァースキンコレクトコンシーラー、カプチュールトータル、ミスディオールシリーズなどどんなお品物をとっても本当に素敵で、見ているとワクワクする方もいらっしゃるのではないでしょうか?

世界中の人々から愛されるブランドを立ち上げたクリスチャン・ディオールはレディースファッションにおいてココ・シャネルと同時期に革命を起こした一人です。それはどんな革命だったのか、クリスチャン・ディオールの生い立ちから日本出店までを一緒に辿ってみましょう。

 


 

クリスチャン・ディオール誕生

1905年 イギリスノルマンディのグランビルで肥料の生産事業を行う裕福な家庭 モーリス・ディオールの5人兄弟の2番目の子供として誕生しました。ディオールは幼いころから控えめで想像力が豊かな少年で、キラキラ輝いているものや、細工にこだわりや美しさを感じるもの、お花模様などが好きだったそう。

彼が5歳のころにディオール一家はノルマンディからパリ16区に引っ越しをします。当時のパリではバッスル、コルセット、ペプラムジャケット、レース、リボン、ダッチスサテンが流行中。流行していたファッションやキュビズムやプリミティアートなどの芸術作品、現代建築などディオールの目に映るものの多くが芸術的な物で溢れ、その多くは彼の脳裏に焼き付いていったのです。なかでもディオールが一番興味を惹かれたのがパリ16区にある彼の母が内装を手掛けたアパートの内装で、彼は幼少期、建築家になることを夢見ていたのです。

「建築家になりたい」という思いとは裏腹に彼の両親は息子に外交官になってほしいという望みがあり、クリスチャン・ディオールは建築や芸術に強い興味を示しながらも1920年から1925年末までフランスのパリ政治学院で外交官としての勉強に励みます。1928年 外交官になるための勉強をするために進学したパリ政治学院ですが、芸術への関心が薄れることはなく、ディオール家の名前を出さないことを条件に父モーリス・ディオールから出資を元に友人と小さなアートギャラリーを開きます。

自分の好きなことを仕事にしていたディオールですが、1930年からの数年間は苦労と不幸が彼を襲いました。

彼が25歳のころに母と弟が立て続けに他界、さらに1929年頃アメリカを皮切りに起こった世界恐慌で父モーリス・ディオールが破産。彼はアートギャラリーを閉じざるを得ない状況になるとともに裕福な暮らしから一転、無一文のホームレス状態になってしまうのです。その後さらに結核を患い、1年間もの期間をイビサ島で療養生活のために過ごしました。

1938年 ディオールはシンプルさを追求した繊細でエレガンスなブランドとして当時もっともパリ的なクチュリエとして有名なロベール・ピゲに才能を認められ彼の下で従事し、そこでピゲのコレクションのためのデザインをする機会を得ます。ロベール・ピゲのメゾンでシンプルさを追求した繊細でエレガンスなデザインを学んだディオールは彼のためにCafe Anglaisを考え出し、発表します。そしてこのデザインは好意的に受け入れてもらうことができたのです。 ロベール・ピゲのメゾンではディオールの他にもユベールド・ジバンシー、ジェームス・ガラノス、カスティヨ、マルク・ボアンが一緒にロベール・ピゲから指導を受け、デザイナーとしての道を歩んでいました。

しかし1939年に勃発した第二次世界大戦にディオールも徴兵され、それによりかれは師であるロベール・ピゲの下を離れざるを得なくなってしまいます。

1942年 クリスチャン・ディオールはピエール・バルマンとともにリシュアン・ルロン(ルシアン・ルロン)のメゾンでアシスタントデザイナーとして働き始め、リシュアン・ルロンのメゾンでディオールとバルマンは主要なアシスタントデザイナーとして切磋琢磨していました。二人はいつかメゾンを一緒に開こうと語り合ったほど仲が良かったのですが、バルマンが独立するタイミングではディオールはまだ独立への決心がついていなかったため別々でメゾンを開く事となります。

第二次世界大戦が勃発し、ナチス・ドイツに占領されていたフランスではファッション業界におけるクチュールメゾンの存続、経済・芸術的な理由からリシュアン・ルロンのメゾンはもちろん、ニナ・リッチ、ジャン・パドゥ、ジャンヌ・ランバンなどの多くのブランドがナチスの高官やそれに協力していたフランス夫人のためのドレスをデザインを提案することを余儀なくされてしまいます。

 

1945年ルロンのメゾンでともに切磋琢磨していたバルマンが自身の名前である「ピエール・バルマン」というメゾンを開設します。終戦後で素材の調達や資金面などとても苦しい時期、さらにはなかなかコレクションが評価されず苦しい時期でしたがバルマンは両親や親族からの援助を受けつつ折れることなくコレクションを発表し続けていました。そんな彼の成功や頑張りを喜ぶとともに自分のメゾンを開き独立後メゾンを成功へと導く事への不安、しかしいつかは自分のメゾンを持ち成功を収めたいという思いと葛藤していました。

 

1946年 ディオールは第二次世界大戦後最も有名な実業家で綿のファブリック王「マルセル・ブサック」が新しいデザイナーを探している事を友人から聞きます。興味はあれどなかなか面接に行く決心がつかないでいたディオールでしたが、この友人に偶然にも3回も遭遇し話したことでディオールは運命かもしれないと思いブサックとの面接に足を運ぶことにしました。

 

クリスチャンディオールと星

ブサックとの面接でディオールは「フィリップ エ ガストン」モードメゾンのアーティスティックディレクターに就任することを勧められます。ディオールはこの決断がとても重要なことだと感じ、返事にとても悩んでいます。ブサックへの返事に悩んでいたある日、フォーブル サント ノーレ通りを歩いているとき、地面にあったものに躓き、転びそうになります。彼が躓いた物体のほうへ振り返り、近づいたとき自分がイギリス大使館の前に居たことに気が付きました。そこで幼少期にグランヴィルで過ごした日々、友人のジョルジュヴィグルーを思い出します。そしてその時「明日マルセルブサックのもとへ行き決着をつけなければならない」と彼は自分自身に再び問いかけるのです。ふと自分を躓かせたものは何だったのかが気になったディオールはそれを拾い上げ確認、そこに落ちていたのは一つの星でした。導きの明星が彼に「承諾」に進むべきだと感じ、翌日ブサックのもとへと足を運ぶのでした。

ブサックのもとへ訪れたクリスチャンディオールは条件つきでの承諾を彼に伝えます。「フィリップ エ ガストンの店は継がない。変わりにすべてが新しく、心の在り方や従業員から物件や場所まですべてが一新した自分の名前のメゾンを開きたい」と伝えるのでした。以前の面接で新しいファッションのトレンドや自分のメゾンについて熱く語っていたディオールを見ていたブサックはこの条件を承諾し、無名であったクリスチャンディオールに600万フラン(現在の為替で7億2000万円)を投資したのです。

当時のディオールは41歳でブサックの投資は非常に異例のことだったため、この戦後のシンデレラストーリーとも言えるニュースはすぐに広まり、デビュー前からクリスチャンディオールは話題の人物となっていました。

1947年2月12日 クリスチャン・ディオールは初のオートクチュールコレクションを開催します。戦後間もなく多くの人々が物資の調達に苦労をしていた時代に発表したコロールラインは贅沢な素材にきゅっと締まったウエスト、ボディラインが出るロングスカートが女性らしいシルエットを演出し、数々の女性の憧れの的となりました。このコロールラインは当時ハ―バスバザーUSの編集長であったカメール・スノーが「ニュールック」という別称を付け、それが浸透し、現在でもつかわれています。

このコロールライン、世界中で好評となった裏で批判的な意見も多く「その日子供にミルクをあげられるかどうかわからない人もいるのに贅沢すぎる」という声や、ディオールの服を着ていたモデルが主婦に襲われ服を切り裂かれる事件が起こり、ついにはスカートの長さを規制する法律ができるか否かというところまでパリでは話が進みました。

アメリカでも同様で「女性の美しい脚線美を守ること」が重要視され、コロールラインで発表されたロングスカートを履くことは愛国心への冒涜とまで言われていました。

新しいスタイルということもあり、最初はなかなか受け入れられなかった人も数多くいましたが、数シーズンが経つと着ている事への批判の声もなくなり、ニュールックはいつしか当たり前のスタイルへと変化を遂げていきました。

 

進化するデザイン

コロールラインの発表後、メゾンクリスチャン・ディオールから発表されるデザインは毎シーズン、デザインのコンセプトが変わると話題を呼びました。

現在のファッションはシーズンごとにコンセプトが変わることへの違和感はありませんがそれまでの一般的なデザインは袖や方のライン、全体的なシルエットが数年間の調整を経て変更されることがほとんどでしたが、ディオールのデザインは毎シーズンデザインのコンセプトが変わるので異例だったのです。

これまでの常識を覆すような動きを見せたら非難の声が上がることは当然で、クリスチャン・ディオールも「彼のやっていることは単なる売名行為だ!」と厳しい言葉を受けました。また今では様々なブランドからコレクションのムードや世界観を表す言葉をつけて発表されることが多いですが、当時はなかったのでここでもディオールのしていることは異例でした。

 

クリスチャン・ディオールからイヴ・サンローランへ

世界中に感動と驚きを与え続けたメゾン クリスチャン・ディオールは1947年2月のニュールック発表から1957年のわずか10年ほどで大企業へと成長します。順調に会社としてだけではなく、ファッション業界に革命を起こしたディオール。しかし彼も人間なのでいつかはこの世を去ってしまう。彼は自身の死期が近いことを悟っていたのか、1957年10月に亡くなるまでの数か月間で次世代の育成を行ったのです。

次世代のデザイナーに選ばれたのはイヴ・サンローラン。イヴ・サンローランは18歳のころに本格的にファッションの勉強を始めます。当時在学していたパリのファッションスクールで開催されたコンテストに応募した作品が当時のヴォーグの編集長の目に留まり、ディオールを紹介されました。ディオールはイヴ・サンローランの作品やセンスに惚れ込み、彼を自身のメゾンで育成し、自身の死後彼を次のデザイナーへと指名しました。

 

1957年10月 クリスチャン・ディオールは休暇先のイタリアのモンテカティーニ・テルメで1957年の10月23日にこの世を去りました。

彼はデザイナーとしての人生を10年ほどで終えることとなってしまいましたが、約10年とは思えないくらいの功績と革命を起こし、今でも愛されるメゾンとしてファッション業界を牽引しています。

 


 

いかがだったでしょうか。ファッション業界の革命家として様々な常識を覆してきたクリスチャン・ディオール。彼のデザインのコンセプトは何度変わろうとも女性が美しく見えるデザインを追求する姿勢は深く根付き、今でも引き継がれているように思えます。

そしてディオールのデザインやコンセプトを表す言葉に星やshineといった単語が入る理由もご納得いただけたのではないでしょうか?

当社でもChristian Diorバッグをはじめ、時計ジュエリーアパレル商品をお取り扱いしております。各文字のリンクからOKURA楽天市場店内Christian Dior商品一覧ページに移動できますのでぜひご覧くださいませ。Christian Diorの買取実績についてはこちらからご確認ください。

OKURA(おお蔵)は
相談料・査定料が無料!
はじめての方でもお気軽に
ご連絡ください!
mail
出張買取お申し込み
出張料・査定無料!
delivery kit
宅配キット申し込み
宅配キットは無料!
line
LINE査定
お手軽!カンタン!
phone
0120-096-905
お電話でもご相談受付中!